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初夢は消費税+芸を盗む+死生学+中経原稿+家族の話し合い

昨日は夢を見なかった。そして今日は3日にして初夢 。しかし苦しい夢だった。何とこんな夢は初めてだったが、税理士試験で消費税法 を受けて、解けずに苦労している夢だった。今年は意外にも消費税で苦労するかも?

三が日も禁酒が続いている。、74.3kgとギリギリながら体重もキープしている。9時起床、新聞チェックしつつサンモニ見る。

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次ぎに元日には他局の番組と重なって見れなかった恒例の『ウイーンフィル ニューイヤーコンサート 』を少し楽しむ。今年の指揮者はジョハジュ・プレートルだが私にとっては初めての人だ。

まあ、誰であれ、最後の『美しく青きドナウ』と例の勇気の出る行進曲 (名前を本当にど忘れ!)で観客と一体になるのは楽しい。

「到知」を読んでいて「死ぬときに後悔する25 」のネーミングのよさを考えていた。税法学の論文構想 を進めるが、遅々としている。

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午後からの『東西寄席 』では「U字工事 」ら二組の漫才に合格点をつけた。このコンビの栃木県と茨城県の掛け合いや、ヤンキー学生と先生とのやり取りなどが参考になる。その一組の「シンクタンク 」も参考になる掛け合いがあった。

ダイエットをする相方の横でプリンを食べることに対してのやり取りで・・・「天使と悪魔が葛藤するわけや。それで悪魔が囁いて来るんや。『えへへ食べてしまえデブぅ!プリンの1個、今更我慢してどうなる。明日死んだらどうなる。悔やんでも悔やみきれんだろう! 食べろ!食べろ!食べてしまえ!』 ほな天使が言うわけや・・・『えへへそれもそうでんなぁ』「どっちも悪魔やんけ!」

大御所の熟練の芸も見せた。桂文珍 は昨年とほとんど変わらないネタであったが、新しい部分に注目した。高速道路逆走の話 もそうだった。
お客様の反応との間合い も絶妙であるし、同じパターンがない のにも勉強になる。

それにしても 父親が尊敬されていないネタが受けるご時世に寂しい思いがするし、文珍自体が「経験者だから語れる」というのが本当かどうか分からないが、仮に多少ともあるとして、何故そうなるのか?

父親は仕事で常には家に居ない。特に仕事柄、それが避けられない職業 は少なくない。食卓に居ない父親を思う気持ちが大切 なのである。

春風亭小朝 にしてもベテランの話芸はたわいない話であっても 繰り返して聞きたくなるし飽きない 。講演のための研究は、これらの芸を盗む ことである。

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『わたしの一冊 日本の100冊』では須藤元気さんの愛読書で司馬遼太郎の『竜馬がゆく 』が紹介された。この番組の最後の「資料提供」のクレジットに見慣れた名前があった「右山昌一郎 」と。えっ?あの高名な右山先生??

『こころの時代』では死生学を教えるディス・エデュケーションが取り上げられていた。これも取りも直さず経営計画=人生計画に直結する問題で、常に考えていることである。
死の準備は生きること」である。そして「生きる」とは経営することであり、日々食べて行くことであり・・・いやが上にも繋がる。

夕刻、今日も論文執筆に集中できないまま終わってはならじと、先に中部経済新聞の原稿を書く。ワードとイラストであるが、これも今年の執筆計画から始めねばならない。

5月末締め切り原稿までが私の担当であるから、とりあえず3月締切り原稿の内容は決めて、その上で先月末(現実的には1月4日までは延長可能だから今日まで遅らせていた)締切り予定の原稿を書き始める。

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しかし、夕食を挟んでこれを完成させる予定であったが、夕食で大きなことが起きた。これがきっかけとなって家族で話し合いを持てたことは良かった

家族も経営の重要なステークホルダー であるから、時折、こうして話し合うことが出来ることは重要である。ここでお互いの不足を理解し合い、不足を埋めあい、協力してゆく土台を作る

何故なら、長い人生のタイムスケール の中では、人間は一人では生きてゆけない からである。生まれる のも一人では生きてゆけない。死ぬのも 一人では寂しいし、苦しい。

だから、感情の行き違いが出てきたなと感じた時に、その場を立たず、「もういいよ」という言葉にも乗らず、じっと待ち 、話し合いになるように、正直なところ分からない部分を聞くことの実践 をする。これは『忍ぶ川』の映画で身に付けた人生教訓 でもあった。

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受験生の勉強が身に入らないことは、ままあることである。私も、論文の締切りが迫りながら中々手に付かないでいるのと同じで、やらなければならないことは本人が一番自覚しているが、なかなか手に付かない。

惰眠を貪ったりするのは、私も学生の頃に頻繁に経験したことだ。幸いというか、親元を離れていたので、煩く言われずに済んだものの、自分に対して歯がゆい思いがしたものだった。

義務を果たす辛さであろうし、プレッシャーである。それを如何に転換し、推進力に代えてゆけるか?今後の人生においても、常に求められることである。
小学生の宿題から始まって、高校受験・大学受験は、それに比べれば大きいもので、同学年が一斉に向うだけムードは高まる。

しかし、実社会は違う。ライバルは散在するだけで、下手をすればどこに居るかすらも判らず、人知れず着々と実力を蓄え、我が社を蹴落とそうとする付加価値競争である。

それは社員とその家族を養う義務であり責任で、サラリーマンとて同じことである。それを自己の命題に置き換えて、積極的に受け入れて、陽転思考し、自らをそのやる気の中に持ち込んで行ける能力は欠かせないものである。

これを、我が社では『賞味達成』と経営理念に謳い、朝礼で唱和しているくらい難しいことなのである。

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昨年に続く、我が家の受験生も同じである。コツコツと課題(受験)に向って努力していける受験生の方が少ないだろう。経営者でも同じである。自社のこと。自分のこと。やれば、ライバル会社以外は誰もが喜ぶし、何より自分のためにもなる・・・それなのにやらないという経営者はどれだけ多いことか!

私はそれを、若干の注意と援助さしつつも見守るしかないと考えている。「親」の文字の如く、木の上に立って見守るしかない。何と言っても勉強するのは本人でしかない。本人がその気にならなければ、勉強部屋に入って、机の前に座って夜遅くまで、必死に・・・マンガ・・・を読むことすら可能である。

体裁を作ることは容易である。親が覗くときだけ教科書を開いて、振りをすることはTVコマーシャル御馴染みの風景であり、だからこそ、ナガラ族なるものもできる。

もっぱら親のストレス解消のために塾という、勉強環境を与えるだけで、これとて、本人がやる気がなかれば、馬の耳に念仏であるが、少なくとも、その間、親は「勉強しているだろう」と思えるだけなのである。

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この夜、長男は新年会でいなかったが、残る4人で話し合いをしっかりした。受験生の自堕落な生活は、同時に私に対する不満 としても出てきた。

私に不足すると指摘される項目は難しい。まとめれば、家族に対する協力をされげなくやって欲しいということであろう。

講演で、いわゆる家族サービスを自慢するかのような 話も、快くないのだろう。しかし家族経営は零細企業においては(そうでなくとも実は同じなのだが・・・)事業経営と同心円状 にあって、その両立が求められ、本質は同じだからこそ、その核心部分の両立の話をしなければ、聴衆の納得性は得られない。

これは、作家も同じ である。彼は、その生活環境の中で作品を紡いで行くから、その経験の中心に、やはり家族が存在する。彼の作品のテーマには多くの場合、人間が登場し、その登場人物はすべて家庭を背負う 。その人となりを描くには家族環境に及ぶ ことは避け難い。すると彼がモデル、或るは直接的に現実の人物を指して 書くことは職業的必然 となる。

噺家や漫才師が配偶者のことや家族のことをネタにする のも又、同様で、彼らコミュニケーションを職業 とする者にとって、聴衆も共有する生活の場は、同時に共感を得易く理解し易い「共通の話題」 である。初対面の人に限らず、人に会うときの挨拶は、たわいの無い共通の話題である天気から 始まるのも、コミュニケーションの入口 であるからである。

講演も、経営者に対する説明も 、すべからくコミュニケーションの仕事である。

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仕事が中心とならざるをえないからこそ、普段はどうしても 事業経営が中心となり勝ちなだけに、先に優先すべき 家庭経営である家族旅行を設定する。だから昨日も長男に家族旅行に行けるであろう日程の伺いを立てた(まだ返事はないが)。

しかし、そうすればそうしたで、“他の家のように”ふらりと出掛ける身近なトリップ のような旅行を望まれる。だから、昨年はそれを受けて、いきなりの京都ドライブもしたのだが・・・まだ不足するらしい。

仕事(執筆 )の脱稿と、他の仕事(決算訪問 など)との合間を見て 、このタイミングという時に、狙って“ふらり ”を提案するのだが、長男の受験への遠慮もあって、断念したこともある。

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私には「頼み難い 」というのは、父親であればそれで良い と私は考えているから、それを頼み易いように、友達のような父親になろうとはしない。むしろ父親は、そうあらねばならない。それが「父性 」の役割であって、「母性」ではない。

従って、親しまれるのは母親である。先日の「死生学」でも、「最も大切な人 」に最後に残るのは母親である。それだけ近しい存在である。それは仕方のないことであり、それを受け入れて活かす ことの方が大切であると考える。

そうでなければ、家族は外に対して無力 である。父性の担当は別の面 なのである。
だから、頼み難いのをそのままにすれば、後は、私がなるべく気が付いて、頼まれなくとも率先してやる ことを拡大することだ。

頼まれなくともやっていることは、私なりには相当努力している積り ではある。ただ、それでも不足というのなら、頑張るより他はない 。ただし出来る範囲ででしかありえない。

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つまりは、ウエイトをもう少し家庭に・・・ということだ 。これも、ただしが付くが、あくまで経営が経済があってこそ 、それが土台であるから、このバランスは難しい。

経営とは変化対応業である 。」そして、その追求は無限 だ。際限がない。だからと言って家庭を放置はできないから、バランス なのである。

しかし外の変化に対応できずに、家族を家庭を経済的に路頭に 迷わすことは出来ない。しかも、相当先の未来を読んで・ ・・である。この板ばさみのバランスの中にあって、必然的に家族との接触の機会は、母親には劣る ことは否めない。しかし、それぞれの役割であるから、それで良いと考えている。

長男の時にしっかり面倒を見たといわれるが、それが今できなくても、あの時とは経営状況が異なるので比較はできない 。その時に応じたバランス でしかできない。或いは、家族にウエイトを置く覚悟から、経営をそれだけ犠牲にして進歩や「変化対応」を鈍らせた に過ぎない。

そして次男は、長男の姿を見てきている し、現に長男よりは同じ年齢であっても対応力があるから私が面倒を見なくてもやっていける 部分が多いと観察し、判断 したからこそ、彼に自由度を多く与え、その分、経営にウエイト を置いた。これも私が観測し、意思決定したバランス だ。

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確かに、私が原稿を書くようになってホテルに缶詰になることが多くなってから、疎遠 になったことは間違いない。しかし、これは職業的な必然性 からである。その職業の必然性は、経営として生き残るための「変化への対応業」としての経営のあり方の原点 でもある。

職業柄、家族と疎遠になる仕事はいくらでもある 。9時5時でぴったり6時から団欒だけのようなサラリーマンあるいは、超金持ちでそれが出来るなどという人はむしろ例外であろう。だからと言って、仕事を放置もできないし、さりとて家族も放置できない。

しかし、それをもってしても、普段は、仕事により重点 を置かねばならないのが父性を担当する者の宿命 である。そうでなければ、結局は家庭おも、経済的に破たんを来たしてしまうのは必然である。それを理解できないのは、平和ボケした軍事不要論者 と同じである。

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私は、私の好きなように経営をしている。そして好きなことをしている。これについて遊んでいるかのような意味で好きなことをしていると思われては心外 である。

経営、特に零細企業の経営にとって事業主の好きなことがあり、それが仕事に直結するならば最大の幸福 である。仕事とは辛いことだけを我慢 してやることではない。

私も最初は辛かっただけの仕事 。その中に喜びを見出し、自分の得手を見出し、そこに帆を揚げて専念・没頭 して、自社の経営の強みを研究開発として強化し、付加価値を創造しなければ生き残れないのである。今、まさにそれに近付こうとしている。

それに向けて昼夜無く、四六時中 考えている。それが経営者 である。それが家庭にあっては 父性である。

好きなことを好きなようにやれば、成果は最大でストレスが少ない。これは頑張れる元なのである。プロは寝ても覚めても精進できるのは、そこに「得手に帆を揚げる」構造を持ち込んでいるからでもある。

科学者の多くが、何故そのなに頑張れるのか?何故それを研究するのか?という問いに対して「好奇心」をその第一の理由に挙げるように、それがエネルギーになって仕事が損得抜きで頑張れるのである。

勿論、その感情を持ち込めない人もいる。その場合、ストレスは高まる。高まっても仕事だから、食べるためには仕方がないと思ってすることも多い。いや、それが殆どの人々の職業観ですらある

だからこそ、好きなことで食べていけることになれた幸福は計り知れない。それに罪悪感をもってはならないし、周りも羨ましくは思えども、けしからんと思うものでは断じてない。

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また、好きなことを仕事 に出来たことによって、あらゆることが好奇心のアンテナから仕事への応用と発想(新製品のアイデア)への転送が可能 となっていることも見逃せない。

世の中で、いわゆる成功した人々はこれを成し遂げている。だから、そこにあっては、本当の遊びもこれまた仕事への材料 となっている。ただし、それに翻弄はされない。

私にとっては、映画であり、読書であり、落語であり、講談であり、演劇であり、旅行であり、TVであり、PCであり・ ・・と自分の興味の示す範囲は全て経営への応用 の触手で、そこからアイデアを得ている のは枚挙に暇が無い。

例えば、現状の 生活と経営では、必要性を感じていない ものの、周辺外部状況から、経営の変化対応 を考えると、世の中に浸透しつつあるアイホン の導入を何らか経験しておかねば ならない。

幸い嫌いな分野でもない 。やればそれなりの活用ができるが、残念ながら他の仕事・締切りに追われて、それを開発している時間がなかなか取れない

同じことは、英語 についても言える。これを何とか取り込まねばならない。しかし時間が取れないの板ばさみで目先の優先事項が多過ぎて手に付かず、或いは、途中で何度も何度もダイエットと同じだけ中断が続いている

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私のように職場と家庭が近い方でも、家族は常に私の仕事を見ている訳ではない から分かり難い。なるべく現況を話し、スケジュールを渡して 状況を伝えているのだが、万全ではない。

妻も、それに対応して遠慮 していてくれる。だからこそ 仕事に集中できる。しかしそれでも足らないというなら話し合って理解しあい、出来ることは歩み寄らねばならない 。常に別の人間個体であるから、必ず行き違いが起こるのは仕方のない ことだ、だからこそコミュニケーションを図ればいい のである。

子供の自由度は当然、或る程度制限される。それは当然である。何故なら養われているからである。自分の思いのままに、自由になりたければ、(またそうなれる様に、その選択肢を増やせるように、親は彼らに教育を施しているのだが・・・それを有り難いと思わないのが多くの子供達である。失って初めて知る価値である。)経済的に独立するよりほか無い。

親が経済的に破たんすれば、道は閉ざされる。生活保護やホームレス化して離婚、里親化も有り得るのは、経済基盤が子供にないからである。

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その点、妻は家事労働の妻には、自由がない ようではあるが、今の所、内助の功と子育て に、特に後者に生き甲斐を見出しているのでそれは特に望んでいないとのことだ。

だからこそ、やれ雨だ雪だと子供達の送迎に奔走 できるのだが、それがストレスになる程だったら 、子供達は各自でバスなり電車なりで行くのが当然 なのであるから、甘えさせ過ぎてはならない と考える。

それが一人で自転車で出かけて、事故にあって死んでも 、そうならないように注意して、それでもなってしまったら仕方がない運命 なのである。常に保護しえやることはできないし、車で送迎したところでリスクはなくならず、却って母子ともに失うリスク さえある。

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妻の生き甲斐に関しては、娘が「孫が出来れば」と言うが、それもまた事実かもしれない。しかし孫は直接関与できない存在だし、やがては離れてゆく。

その前に彼女自身の生き甲斐を見出さなければならないと考える。彼女は料理に集中できるし、美味い天性があると、私は思う。そこに道があるように私は思っているが・・・これらは本人が、気付いて、それを信じないと始まらないことである。

これは経営の中で、私が今の仕事に生き甲斐を見出し、経営のサイクル化に組み込むことが出来るまでに時間を要したことと変りは無い。

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理解し、信じあえない限りは、やがては老後に寂しい思いを互いに する可能性はある。彼女は、旅行も私と行きたいと言わないかもしれない。
そうならないためにもコミュニケーション をとらねばならないし、行動で努力 しなければならない。

話し合いは長時間に及んだ。最後は皆、笑顔になれた。しかしまだ誤解も多いことだろう。話し合いとはそういうものだ。それぞれの納得は、それぞれ異なることは多い。国と国も、会社と会社も、常にそうだ。

条約や契約書を交わしてもそうなのだ。まして話し合いだけで議事録もなく、覚書もない家族や夫婦や恋人同士の「理解」と言う名の「美しき誤解」は、ただ一点、『信じる』ことだけが担保で、それが絆となる。また、そうあるだけの日頃の行いがそれを生むことも事実である。

暫くして、その互いの理解の齟齬に気が付いた時に、またコミュニケーションを図ればよいのである。それは不断の努力である。

「もういい!!」と捨て鉢にならないことである。最後まで話し合いのテーブルに残ることである。それはあらゆる組織の話し合いにも通じる。

そこには「辛抱と我慢」が求められる。民主主義と同様で時間がかかる。そのテーブルから離れることは、コミュニケーションの放棄であるからだ。そこには、断絶か暴力という闇しか存在しなくなり、やがては孤立、孤独が待つことになる。

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10時まで話たから2時間ほど話していた ことになる。むしろもっと話していたい気持ち を切り替えて、妻に勧められて先に入浴し、書き掛けだった原稿に戻り仕上げ、送信した。11時40分ごろのことである。

今夜から始まった大河ドラマの『龍馬伝 』を鑑賞する。勿論、録画である。興奮していたのは 、大河ドラマのせいだけではない。それ以上に先程の話し合いが、頭の中をグルグル と回っていた。どうやって、そのバランスを得るか・・・ である。

変化対応は、経営だけでなく、家族経営にも通じ、包含する ものである。何度も登場した「バランス」。それは近著の『パラパラめくって比べる会計』の中にも登場するワードである。経営(事業・家庭)にとっては、それら全てをバランスさせねば ならない。これが父性の役割 である。それがマネジメントである。

差し当たりどうバランスを取るか?これも課題である。

眠れない。仕方ないから、『ダイハード4 』を鑑賞して冷却化する。それでも寝付けづ、ブログを書き、結局は午前4時半ごろに就寝して、充実した日を終えた。

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2010年01月03日 11:12に投稿されたエントリーのページです。

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