ホテル缶詰1日目。いつもの時間に起きて、9時頃に何かのTV番組をトイレに入りながら聞く。相続権譲渡の話だった。
10時過ぎに事務所より、昨日の「無茶な相談」のアポが取れた旨の電話があって安堵した。とりあえず、缶詰明けの日程が決まってホッとしたのである。社員もその気持ちを察して電話をくれたのであろう。
新聞チェックの後、学会会報担当の出版社から論文のタイトル変更がないか?と英文タイトルを付けて下さいとのメールが届き、驚く。もとより、そんな才覚のあるはずもなし。早速、悲鳴のメールを送る。
後で、ドイツに調査に行った時にお世話になったT教授が付けて下さるとの返信が届いて、やっと肩の荷が降りる。まあ、出来ないものは頑張りようがないから、「それなら辞める」と執筆辞退覚悟だったが。
しかし、論文集の全容がそのメールで明らかになると、27人の錚々たる論客が揃っている中、私のような駆け出しで大丈夫だろうか?と不安にもなる。
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10時40分、まだ残る問題が書評者の選定である。しかし、論文執筆は勿論のこと、他にも締切りが山積していて、動けない。この調子では1週間を目途に決めて下さいとの、今週末には間に合いそうもないので、出版社に、苦慮している状況と、1週間では目途が立ちそうもない旨をメールする。これにも長文が必要だった。
もうお一人の、謝辞を書いた先生にメールを書いた。近著2冊の献本を指導教授と共に送ることを社員に託してきたので、そのことのついでに、書評者のことで困っている現状を伝えた。
ただし、現職のお立場の上からは、書評を書けないことは覚悟の上で、それも伝えた上で、「私の愚痴」として書いた。
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出版社へのメールについては、夜に出版社から返信が届くのであるが、こちらがそれほど心配することでもないというのが結論となるのである。この数日悩んだのが嘘のような取り越し苦労であった。
出版社は、それほど重い意味を持って私に書評者を紹介して下さいと言ったのではなかったのだ。だからこそ、詳細な条件(原稿料や字数、献本の有無)を言わなかったのだなと後からは思い当たる。
しかし、これまで様々な書評の経験からは、全て著者がお膳立てする場合が殆どだったから、今回もそうだろうと思い込んで、悩んであちこちした訳だった。
そんな訳で、一応、こちらが考える書評者のお一人を名指ししただけで、後は出版社が動いてくれることになった。これで一安心である。しかし、リズムを崩していた。
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横浜での講演のためのプロフィールを送ったり、新幹線予約に、過日のお礼メールやら、再建研のメンバーに対する源泉税の質問などの回答に、論文への気持ちが乗らない愚駄、愚駄した気持ちが呼応する。
どの道、論文の筆が進まないなら・・・と、横浜講演では、パラパラのプロジェクター投影方法を工夫して、ワードのままで出来るようにした。3時過ぎからは、暫く放置されていたHPのメンテをした。
4時半から、書店に並びだしたろう新刊に続く新作の構想を練る。
5時過ぎに夕食の買い物をして、ニュースを見つつ食し、先の出版社の返信を受信し一応の肩の荷を降ろす。
そんな中、関係会社からまたも原稿依頼が飛び込んで、クラクラ・・・と来た!。
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論文に何が欠けているのかを考える。計画を立てる。辛いからである。論文を書く動機付けを行う。楽しみと感謝を入れる。
あれほど、やる気に満ちていたのに、他の仕事に追われて暫く放置しておくと、このように次ぎに取り掛かる時はまた莫大なエネルギーが必要となるのだ。
夜8時から、やっと論文に向うことができた。後から思うと、ただ一回訪れたこのチャンスを活かせず、継続できなかったのが拙かった。
何故かと言うと、この後、9時のニュースと報道ステーション、さらに『ガイヤの夜明け』では外食のお客様の勉強に必要なカレーのココ一番屋のハンバーグと根室食堂の経営努力を見てWBS・・・と、それなりの必要があったのだが・・・より根本的問題は朝のスタートの間違いであったと言える。
実はこれ以外にも、心をかき乱すメールが届いていた。3月末の講演依頼について条件を知らせるメールが届き驚いていた。講演を引き受けること自体では、この会には何も協力できていないので、こんなことでお力になれるならボランティアとして、赤字であることは良いとしても、やはり一般の方には書籍の状況がご理解頂いていないことに、何やら寂しい思いがしていた。そして、これが明日にも影響するのである。